性能の進化で制限から解放されることは必ずしも良いことではない

以前 CoreAVC についてのエントリを書いたことがある。そこでは少しでも軽く快適に動画を見ることができるように頑張っている様子が記録されているのだが、最近PCを買い替えたために、もはやその苦労は必要ないというお話。

グラフィックカードに再生支援機能が付いているので、フルHDの動画も難なくヌルヌルと再生してくれる。もっとも、CPUその他の恩恵もあるとは思うが。

このときふと思う。あの苦労はいったい何だったのだろうかと。

でも、苦労したこと自体は無駄ではない。設定を詰めるためにいろいろな知識を吸収して身に付けることができたのだから。外面だけ見ると無駄に思えてしまうに過ぎない。

ハードの性能の進化はいつもこういう事態を引き起こしてきた気がする。例えば音源。昔は制約のある環境の中でいかに表現するかを問われ、時として信じられないようなクオリティの作品が出来上がってきた。しかし今は制約はほとんどない。オーケストラやオペラが流れようとも驚きはしない。

もちろん「何でもできる」という環境は恵まれていて素晴らしい。しかしながら、制約があるからこそ知恵を絞って出てきたアイデアというのが革新的であったことも少なくはないはずである。

ドラクエで、船が手に入ったとたん、何をしたらいいのか分からないプレイヤーが続発したという。自由になりすぎるとポイントとなる点や目標を見失うおそれがある。

環境として何でもすることができるという現代の状況の中、しっかりとした芯を持ってモノ作りをしたいと心から思うのである。

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