約束の地

キャロ組

オーケストラコンサートにおいて映像を流すということについて

コンサートにおける映像の使用について もう昨日になりますが、『幻想水滸伝 × JAGMO Orchestra Concert Tour vol.2』 というオーケストラコンサートに行って参りまして、先ほど帰宅しました。

コンサートからの帰宅中に考えたことを忘れないうちに記させて下さい。

今回のコンサートでは、オーケストラの演奏とともに、スクリーンの映像を用いてゲーム映像が流されました。僕もその映像を見てゲームプレイ時の記憶がよみがえり、得も言われぬ感動に包まれました。周囲の人の感想を聞くと「あのシーンがよかった」とか「なんであそこが流れなかったの」とかという意見が少なくありませんでした。

しかしそれは、コンサートの感想ではなく映像の感想ではないでしょうか。

もちろんそのコンサートが、映像と演奏を一体として総合的に表現することを目的としているならば、それはコンサートの感想であると思います。しかし、映像は「従」で演奏が「主」であるならば、「従」が「主」を食ってしまっている表現の状態は好ましくないと思います。実際に僕は、途中から意図的に映像から目をそらして演奏に集中するようにしていました。

演奏に集中してほしいので映像は流さない、ということを明確に表明している方もいます。市原雄亮さん です。

2018/12/01 に開催された「古代祭り」では映像は一切流れませんでした。演奏のみで「アクトレイザー」の名シーンを僕たちの頭の中に呼び起こしてくれました。

映像を流すことが絶対悪ということではありません。表現の目的や方法によっては「主」を一層引き立てるものとして効果的な役割を果たします。7/28 に開催された「オクトパストラベラー」のコンサート は、まさにそんな映像の使われ方をしていました。

表現は、表現する側の手を離れたらあとは受け手側にその解釈は委ねられます。どのように解釈されるかは受け手次第であり、僕が今回考えたこととは異なることを考える人もいるでしょう。つまり、映像を流す流さないということは、それ自体ではどちらが良い悪いという性質のものではありません。大切なことは、「表現をする側が、映像を使うことによって本当に自分たちの表現したいものを表現できているのか」ということだと思います。

「映像と演奏を引っくるめて総合的に作品の世界を表現すること」を目的としているのならば、映像と演奏の主従関係はあいまいにして映像を積極的に流していいと思いますし、むしろそうしなければ目的の表現はできないでしょう。一方で、映像はあくまで演奏の補助としての扱いならば、過度な映像の使用は自分たちの表現を妨げるものでしょう。

今回のコンサートでは、事前の告知で映像が流れることを一つのアピールポイントとしていました。「映像を用いることによって何を表現したかったのか」ということはプロデューサーの山本さんなどに聞かなければ分からないですが、コンサート後の周囲の反応を見て少し違和感を感じたので文章としてまとめてみました。

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