幻水IIのジョウイのセリフを読む

「幻想水滸伝II」の「ジョウイ」のセリフの中に、次のようなものがある。

「………………ピリカ。」
「ピリカ……ここで…お別れだ……」
「………………ピリカ…多分、これが最後のお別れだ。もう、2度と会うことはないだろう。」
「ピリカ……よく聞くんだ…きみは、これから大きくなり、多くの人と出会うだろう。そして、多くの人と別れることになる。だから、ピリカ。忘れるんじゃない。別れをいやがるのではなく…共にすごせる時を大切にするんだ。わかったね。」
「ピリカ………………」

「別れをいやがる」んじゃなくて、「共にすごせる時を大切にする」。この文言だけを聞くと、目前に迫る避けられぬ「別れ」に対し、涙なくしてはいられない。

しかし、僕は違うと思う。これは、「本当の」「別れ」を経験した人のセリフではない。いや、それは言い過ぎかもしれないが、本当に別れを経験すると、このセリフに隠されるもう一つの真実に気がついているはずだ。

その「真実」はちょっと置いておく。

このセリフの真意は、「今を生きる」ことこそ大切であり、今そこに起きていることに対して一生懸命頑張ることが必要であることを教えてくれる。後から「あの時こうしておけば良かった」と言っても手遅れなのである。その時には、もうその「こうしておけば良かった」という瞬間は二度とやってこない。だからこそ、その時その時を精一杯生きるのだと。

あの場面でジョウイが発する(発すべき)セリフとしては、非常に素晴らしい。幻水IIが極めて高い人気と完成度を誇ることを代表するようなセリフだと思う。

しかし、このセリフ単体で考えた場合は、僕は大きな疑問を抱くのだ。一つの「真実」に行き着かざるを得ないのだ。

その「真実」とは、

「共にすごせる時を大切にす」ればするほど、その想い出は大きく膨らみ、心の大半を占めるようになり、「別れ」た後に襲ってくる後悔の念は計り知れず、となると「別れをいやがる」ことは当然であり、そうでなくちゃおかしい

ということだ。

共にすごせる時を大切にすることで、とてもとても大切にすることで、一生忘れられない素敵な想い出ができた。体験ができた。幸せな気持ちを抱くことができた。

そこに別れが襲ってくる。別れを嫌がらないで受け入れる?いや、それはできない。

なぜなら別れたあと、先に挙げた想い出を、体験を、幸せな気持ちを、否が応でも想起せずにはいられないからだ。そして猛烈な後悔に襲われる。なぜ別れたんだ。もう二度とあの瞬間はやってこないんだと、そのとき改めて気づくのだ。

だから、別れたくない。別れるべきでない。必死に別れることを回避する。それが正常だ。それでも別れざるを得ない状況?ならばそれでも別れない方策を練る。そこまでするはずだ。本当に素敵に時間を共にすごせる相手ならば。

僕は体験したからこそ言う。

「共にすごせる時を大切にす」ることは、裏返せば別れた後の傷口を大きく広げる一つの原因であると。場合によってはそれがあまりに強烈すぎて、自らの命を絶つことにもなりかねないと。

「あの時、一緒に笑い合った時間は嘘だったのか」
「一緒に行ったディズニーシーで見たものは全て幻だったのか」
「二人で食事したあのカフェには、もう一人で座るしかないのか」
「隣りを歩いて横顔を見ているだけで幸せだったあの時間はもう二度とやってこないのか」
「カラオケでひたすら歌いまくったあの空間は蜃気楼だったのか」
「貸し借りしたゲームの話題はもうしたくないのか」
「好きな同人誌について熱く語り合うことはもう不可能なのか」

全て、もう、ダメだ。

でもそれは確かに現実に存在したのだ。

あの日あの時の光景が、油断をしていると頭の中に襲ってきて、僕の気持ちを激しく落ち込ませる。この苦しさが、辛さが、悲しさが、寂しさが、分かるというのか。

だから僕は言う。

「別れをいやがれ」。

別れが予想されるような相手とは、最初から「共にすご」しちゃだめだ。別れが予想されるか分からない相手なら、「共にすごせる時間を大切にする」ことは早計だ。相手のことをよく知ってからでいい。

一番いいのは、人との関わりあいを極力断つことだ。そうすれば、別れなどそもそも起こり得ない。

僕は、それでもいいんじゃないかと思っている。
傷つくことが怖いから。
これ以上、もう悲しい思いをしたくないから。
結局寂しくなって死ぬんだろうけどね。

別れに耐えられずに命を断つか、寂しくて命を断つかの違いだ。
ただ、他者にあまり迷惑をかけない分、後者のほうがいい。

それだけの話だ。

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